過去を悔やむ
「最近、書道を再開したの」と友人が言った。
墨の香りとともに戻ってきた日常に、彼女は少しの後悔をにじませていた。
久しぶりに書道を始めて、
今は若くて才能ある子もたくさんいる。
師範はさすが!
私は、何で続けてこなかったんだろうと思う。
決して遊んで過ごしていたわけじゃないけど、
仕事や子育てを一生懸命やっていたんだけど、なぜ書道から遠ざかっていたんだろう?
少しずつでも続けていれば良かったと悔やまれる。
でもこれが「道」よね。
剣道も書道も一生かかって精進していくものやんね。
お互い頑張ろうね。
その一言に、私はうなった。
良いこと言うな〜
私も思う。
あの時、大学でも真面目に剣道をしていたら?
剣道でおいでと言われた大学へ進んでいたら?
きちんと昇段審査を受けていたら?
ここで、
もっと違う形があったのだろうか?
でも、また当時に戻っても、
その時はその道しか選ばないと思う。
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負けず嫌いからどう変わる?
先生方はどんなすごい先生も、
「自分はまだまだです。稽古です。一緒に頑張りましょう」
みたいなことを言われる。
こんなに凄いのにこれ以上何を?どうされるんですか?
と思うけど、一生かけて自分の道を極めていくのが「道」らしい。
一方の私は、負けず嫌いだ。
「悔しい!」「次こそは!」
そんな感情が、昇段や試合への意欲を引き出し、私を動かしていた。
先生が導いて下さった探究という「道」
しかしある時、先生が、
「稽古の時は、必ず今日はこれしようと課題を持ってやっているよ」
と教えて下さったので、
私も真似するようにしている。
それを聞いたとき私は、
これまでの剣道の稽古は、「やらされる稽古」
しかしてこなかったんだと衝撃を受けた。
部活の稽古メニューをひたすらこなす!
きつくても水飲まずに頑張る!
繰り返し繰り返し身体に記憶させる!
なので、
「今日は攻めの足の使い方を変えてみよう」
とか、
「初太刀だけは本気で取りにいこう」
とか、
「裏から攻めたらどうなるか?」
とか、
「誘ったら、力を抜いたらどうなるか?」
とかを、
大人の先生との地稽古の時はやっている。
ただ勝ちたいだけだったその気持ちに、
“探求”という道が加わった。
「どうしたら?」
と考えて工夫するようになった。
大人の稽古は自己満足?
自分で考えてする稽古は楽しい。
ただし、自己満足。
大人は自己満足!
誰も誉めてははくれないので、
自分で自分を褒めたり貶したり、
納得したり研究したりして稽古する。
それを、ただひらすらやる。
それが「道」で合ってるのかな?
“道”に戻るのに、遅すぎるということはないと思いたい。
私は、ようやく“自分の稽古”を始めたばかりだ。


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